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清明心とは他者や共同体のために私的利益を放郷すること(無私の心)を意味する。 私利のために他者を利用することは汚き心の表れにほかならない。
清明心は慈愛にもつながる。 江戸時代に唱えられた「誠の心」や「まごころ」もこの伝統に基づく。
日本人は、清明心の基礎の上に中国からの外来思想を受け入れた。 一方、聖徳太子によって明確にされた「和の精神」は、私利の追求や徒党の形成を戒めて、話合い・共同体意識に基づく組織内の調和をめざすものであった。
この伝統は武家社会の合議制や戦後の日本的経営にも受け継がれた。 さらに、外来宗教である仏教の教えた名利の否定や慈悲心と儒教の礼や忠なども、日本人の共同体的価値規範に大きな影響を与えた。
山折哲雄は、わが国の仏教では、他者と共感・共鳴しつづけることのできる「無心」の状態、すなわち「無私」が目標とされてきたと指摘する。 ここまでに強調してきたように、人間は教えられた価値から大きな影響を受ける。
すべての日本人はこれらの日本的価値から影響を受けた。 もちろん、日本人のすべてがそれらを厳格に実践してきたわけではない(ゲームの実験結果から明らかなように、すべての西洋人が個人主義を厳格に実践しているわけでもない)。
K氏らの理論から推察できるように、多くの人間がこうした日本的な価値観を強く持っていると、社会全体の人間の行動が、多くの重要な場面で西洋とは違ってくる。 わが国の学校教育も価値形成に大きな役割を果たしてきた。

アメリカ教育省による日本の義務教育に関する調査報告を承れば、日本の教育では協調的な人間関係やグループの役割が重視されていることがわかる。 日本の学校は、共通の感情、共通の経験、納得された目標によって一体となった共同体である、とG氏は解釈する。
さらに、日本の義務教育には平等主義的色彩がきわめて強いことが、C氏によって指摘されている。 平等主義と共同体的価値規範は通底する。
筆者はオーストラリアとニュージーランドの幼稚園や小学校を観察したことがあるが、そこでは個人の独立を重視する教育が行なわれていた。 「私が自分でするのを手伝って」と書かれたTシャツが、幼稚園で作られているのをみた。
一般に、個人主義的社会の教育では、子供の自立を促進することが目的となる。 集団を考慮に入れた日本の教育は日本的価値に則したものであり、それを自ずと生徒に教え込む作用をする。
制度は価値を目に見える形にしたものである。 したがって制度と価値観とは不可分の関係にある。
市場も1つの制度とみなしうるが、そこには個人主義的価値が内在している。  終身雇用制は日本的な価値を実現・活用して生産の効率を達成しようとした制度である。
他者を利用しない行動、無私な心情、誠の心、和の精神は、いずれも協力を促進する。 終身雇用制は日本的価値を基に協力が実現する環境を設定した。
終身雇用制は仏教の教えに近いという意味のことを、ある著名な仏教学者が言っていたが、このようなメカニズムがその発言の背後にあると解釈できる。 さらに、合理主義者の間にも協力関係が成立する可能性があるので、協力は純個人的利益とも必ずしも矛盾しない。

終身雇用制は日本的価値に似た価値のない所でもその効果を発揮する可能性を持つが、ここまでの議論は、それらの価値があればその効果は増幅されることを示唆する。 日本的な価値は、具体的にどのような心理的・社会的メカニズムを通して現われるのであろうか。
重要な側面を2、3考えてみよう。 日本人の行動には「遠慮」という側面が伝統的に強かった。
遠慮は自己規制の一例である。 遠慮は、無制限な私利の追求を避けて、他者に迷惑や労力をかけないことを意味する。
他人に迷惑をかけないように生きるということは、多くの日本人が実践してきた生き方であった。 このような自己規制は、囚人のジレンマに陥ること(先にみた利得表で右下の状態になること)を防いできたであろう。
法律の許すかぎり他者を利用してもよいという価値観を持つ者同士がゲームをした場合と、自己を規制する者同士がした場合とでは、結果が異なってくる。 ただし自己規制は、どのような場合でも自己利益の追求を抑制することとは異なる。
直面する状況を考慮して、無制限な私利の追求が関係者の状態を悪化させると判断されたときに、自己規制は発揮される。 したがって個人の意思決定は、その個人の利益だけでなく、その個人の行動が他者に与える影響をも考慮してなされることになる。
自己規制は継続的な関係にある人間同士の間に強く発揮されるであろう。 見知らぬ者同士の間には強い自己規制が働きにくい。

したがって、終身雇用制は文化的に存在する自己規制から多くの利益を得るとともに、自己規制を強化する作用もする。 有限回繰り返しゲームでは、最終段階が近づくと、プレイヤーは「裏切り行為」をすることがK氏らの理論によって示された。
またアメリカなどの実験でも実際にそうなることが報告されている。 わが国には、こういうときの自己規制を喚起する言葉がある。
「立つ烏跡を濁さず」や「有終の美」などの言葉である。 前者は、立ち去る者はあとが見苦しくならないようにすべきことを教えている。
後者は、最後までやり通して立派な成果をあげるべきことを教える。 これらの言葉は、最後の段階で見苦しい行動をとることを戒めているとも解釈できる。
このような価値を教えられた人間は、多くの場合、そうでない者と必ず異なった行動をとる。 日本人は、相手を裏切る行動、特に長い協力関係の最後の段階になって裏切る行動をひどく軽蔑してきた。
東京は人口調密であるにもかかわらず、人々の行動が整然としているのに驚く外国人は多い。 神戸市などを襲った1995年の地震のときに被災者が見せた高い行動規律(自己規制)は世界に強い印象を与えた。
一部の国にみられるような、暴動・災害に乗じて商店を襲い商品を略奪する行為は、わが国には見られない。 もし私利を追求することが個人の目的ならば、暴動・災害時には警察もほとんど機能しないので、盗むことが得策であろう。
 日本人の自己規制は、世界的にみてもまだ健全な側面が多い。 外国の経済学者のなかにも、日本人の高い自己規制を称賛する人が多い。

世界的に著名なイギリスの経済学者であった故J氏(彼女は鉄のような意志を持つ人でもあった)が1978年頃にアメリカの大学で行なった講演を筆者は聴いたことがあるが、彼女は日本人が規律正しいことを強調していたのを今でも覚えている。 アメリカ人を対象とした講演であるため、日本人にお世辞をいったわけではないことは明らかである。
日本は伝統的に信頼を非常に重視した社会である。 わが国では、買物をして小売店を出るときに、持参したバッグの中身を検査されることはない。
日本のビジネスで成功する秘訣は信頼を確立することである、と指摘する在日外国人は多い。 イギリスの著名な経済学者Kは、1991年の著作で、低信頼文化と高信頼文化という用語を用いて文化を区別した。
前者は人々の間に不信感が蔓延した社会の文化であり、後者は信頼関係の尊重される文化である。 K氏は東欧諸国やアメリカの文化を低信頼文化とみなす。
高信頼文化を持つように思われる国として彼が挙げたのは、スウェーデンと日本である。

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